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第一幕III

 春の病、というのがある。
 冬、海や川から遠い地方の人たちの食生活は極端に偏《かたよ》る。それこそ雪が降り川が凍《こお》るところなどでは毎日毎日塩|漬《づ》け肉と固いパンだけで暮らすことになる。霜が降りる場所でも野菜がまったく育たないわけではないが、冬の野菜は食べるよりも売ったほうが得だ。野菜は食べても暖かくならないが、野菜を売った金で薪《まき》をたっぷり買えば暖《だん》炉《ろ》の火は大きくなるからだ。
 ただ、肉ばかり食べて酒ばかり飲んでいると、大体春頃に全身に発疹《ほっしん》が出る病気にかかる。
 それが春の病と呼ばれるもので、不《ふ》摂生《せっせい》の証《あかし》みたいなものだ。
 もちろん、なるべく肉の誘惑《ゆうわく》に負けずぶどう酒の心地よさにも溺《おぼ》れなければこの病気はほとんどでないことがわかっている。毎週日曜日の教会の説教でも、野菜を食べて肉を控えよと事あるごとに言われる。
 だから、春頃にこの病気にかかる者は教会の神父たちにこっぴどく怒られる羽目になる。
 過大な食欲は神が定める七つの罪のうちの一つなのだ。
 それを知っているのかいないのか。
 ロレンスは、ホロの食欲に呆《あき》れるようにため息をついたのだった。
「げふ……。うまかった」
 上等の羊肉をこれまた上等なぶどう酒で流し込めばそれはご機《き》嫌《げん》になるというものだ。
 しかもそれらは全部タダの上、食って飲んで眠《ねむ》くなっても荷台で丸くなればいいときている。
 どんなに浪費家の商人であっても次の日の商売のことを考えれば自ずと制限をかけるものだが、ホロにそんなものはない。
 喜《き》色《しょく》満面《まんめん》で足をパタパタさせながら食べて飲んで、ようやくひと段落ついたというところだ。
 もしもロレンスが旅の糧食《りょうしょく》としてそれらを配分するのなら、三週間は持たせる自信があるくらいの量で、ぶどう酒にいたってはどこにそれだけ入るのかという量を飲み干していた。
 それに、ラトペアロン商会の主人から巻き上げた肉とぶどう酒を右から左に売りさばけばホロの借金はだいぶ減っただろう。
 ロレンスは、そういう意味でも呆れていたのだった。
「さて、わっちはそろそろ寝るかや」
 だから、自《じ》堕《だ》落《らく》の見本のようなその発言を聞いても視線すら向けなかった。
 ラトペアロン商会から肉とぶどう酒を巻き上げたうえ、さらに格安で大量の武具を仕入れたロレンスたちは、昼の鐘が鳴るのを待たずにポロソンの町を出た。それからさして時間も経《た》っていないので、今はようやく太陽が頭上を越えたというところだ。
 よく晴れて陽《ひ》もさしていて、昼酒を飲んでごろ寝するには絶好の日和《ひより》だろう。
 多少荷台が武具のせいで雑然としてはいるが、酒が入っていれば気にならないはずだ。
 それになによりロレンスたちがリュビンハイゲンに向かって進んでいるその商業路は、ポロソンの町から出た直後こそ坂が急だったり曲がりくねったりしていたものの、今はもう見晴らしのよいゆるやかでだたっ広い下り坂の道になっている。
 そんな道が延々と続いているのだ。
 しかもよく使われる道なのできちんと踏み固められているし、開いた穴はふさがれている。
 寝《ね》床《どこ》に例え剣の柄《つか》をぎっしり敷き詰めても、その上に寝転がれば優雅な午後のひと時を過ごせることは間違いない。
 だから、一人酒も飲めず馬の尻《しり》を見つめながら手綱《たづな》を握るしかないロレンスは、羨《うらや》ましさも手伝って決してホロのほうを見なかったのだった。
「む、その前に尻尾《しっぽ》の手入れをせんとな……」
 そして、そんなところだけ勤勉なホロがもそもそと尻尾を取り出しても、やはり注意する気すら起きなかった。
 もっとも、見晴らしのよい道なので突然誰かと出くわすという危険もないのだが。
 そんなわけでホロは櫛《くし》で尻尾の毛を漉《す》き始め、時折手で蚤《のみ》かなにかをつまんだり毛を舐《な》めたりしている。
 一心不乱に黙々と作業をするあたり、よほど尻尾に気を使っていることが窺《うかが》える。
 こげ茶色の毛が覆《おお》う付け根のほうから作業の手を進めていって、その手が白い毛に覆われる尻尾の先のほうに到達してふと顔を上げた。
「あ、そうじゃ」
 なだらかな道と暖かい日差しでうとうととしかけていたロレンスはその声でハッと我に帰る。
「……どうした」
「次の町に着いたら油が欲しい」
「……。油?」
 大きくあくびをしながら問い返す。
「うむ。尻尾の手入れに使うとよいと聞いたことがある」
 ロレンスは、無言で視線をホロから前方へと向けようとした。
「買ってくりゃれ?」
 ホロは小首をかしげ、笑顔でそう言った。
 金持ちの男ならずとも色々買ってやりたくなるような笑顔だが、ロレンスはそれをちらりと横目で見ただけだ。
 ロレンスの目の前には、ホロのそんな笑顔よりも大きく数字が飛び交っていた。ホロがロレンスに対して背負っている借金の金額だ。
「お前の着ているその服と、予備の服と、櫛《くし》と、旅費と、酒代と、食費を計算したことはあるか? 町に入る時の人頭税だってある。よもや足し算ができないわけではあるまい?」
 ホロの口|真似《まね》をしてそう言ってやったのだが、ホロは依然として笑顔のままだった。
「足し算くらいできるわいな。足し算どころか引き算も得意じゃ」
 それから、なにが面白いのかくすくすと笑った。
 ロレンスはホロがなにかすごい切り返すを秘めているのかと勘《かん》ぐってしまったが、ちょっと様子がおかしい。もしかしたら酔っ払っているのかもしれない。
 荷台に置かれているぶどう酒を入れる皮袋をちらりと見る。ラトペアロン商会から巻き上げたぶどう酒は皮袋五つ分で、そのうち二つが空になっていた。
 酔っていてもおかしくはない。
「なら、自分がいくら使ったかを足し算してみることだ。頭のよい賢狼《けんろう》なら、その数字から俺《おれ》の答えが簡単にわかるだろう?」
「うん。わかりんす」
 ホロは笑顔のまま素直にうなずいた。
 いつもこれくらいならいいのだが、と思って前を向くと、ホロが言葉を続けてきた。
「きっと、ぬしは買ってくれる」
 横目で見ると、ホロはにこーっと笑っている。やはり酔っ払っているのだろう。可愛《かわい》い笑顔だった。
「賢《かしこ》さが自《じ》慢《まん》の賢狼も酒に酔っちゃあ形《かた》なしだな」
 独り言のように言いながら笑うと、ホロの首がかくんと反対側にかしげられた。
 酔っ払って御者《ぎょしゃ》台から落ちたら怪我《けが》をするかもしれない。ロレンスはホロの細い肩《かた》に手を伸ばそうとしたのだが、その瞬間、ホロは狼《オオカミ》を思わせる俊《しゅん》敏《びん》さでロレンスの左手をつかみとる。
 驚いてホロの目を見ると、その目は酔っ払っても笑ってもいなかった。
「なにせ、わっちのおかげで荷台の荷物を安く仕入れられたんじゃからな。さぞ儲《もう》けが出るんじゃろうよ」
 ホロは、全然可愛くなどなかった。
「な、なにを根拠《こんきょ》に――」
「わっちを見くびってもらっちゃあ困るのう。ぬしが喜《き》色《しょく》満面《まんめん》、強気にあの主人と交渉しとったのを見てなかったとでも思うのかや。わっちは器量も頭も目もよいが、当然のことながら耳もよい。ぬしの交渉が聞こえてなかったわけがない」
 ホロが二本の牙《きば》を見せながらにやりと笑った。
「油、買ってくりゃれ?」
 ロレンスがこれ幸いと弱みにつけ込んだ交渉をしたのは間違いのないことで、ほとんど思いどおりにことが運んだのも事実だ。
 あの時、ホロの目の前で意気|揚々《ようよう》と契約を推し進めた自分を罵《ば》倒《とう》したかった。
 儲《もう》かっていそうだなとわかれば、たかりたくなるのが人の性《さが》だからだ。
「く、だ、だけどな、お前は俺《おれ》にいくら借金があると思ってるんだ。銀貨百四十枚だぞ。それがどれほどの大金かわかっているのか? この上余計なものまで買ってやれるか」
「うん? なんじゃ、ぬしはそんなに借金を返して欲しいのかや?」
 ロレンスの反撃に、ホロは少し驚いたような顔をしてロレンスのことを見る。
 まるで、いつでも借金など返せるといわんばかりだ。
 貸している金を返してもらいたくない人間などいない。ロレンスはホロのことを睨《にら》みつけながらはっきりと言ってやった。
「あ、た、り、ま、え、だ」
 ホロが使った金を耳を揃《そろ》えて返してくれれば、荷台に載《の》せる品物の量も質も上げることができる。そうすれば利益もうなぎのぼりだ。資本が多ければ利益も多くなるのは、商売の基本中の基本だからだ。
 ただ、ロレンスの言葉にホロは表情を一変させた。「あ、そ」と言わんばかりの冷めた表情だ。
 まったく予想していなかった種類の表情に、ロレンスは再度たじろいでしまう。
「ぬしがそんなふうに思っていたとはの」
 それから、そんなことを言った。
「……ど、どういう」
 意味だ、という言葉はホロの矢継ぎ早の言葉にかき消される。
「ま、ぬしに借金を返したら、わっちは自由の身じゃからな。そうじゃな。さっさと返すかや」
 その言葉で、ホロの言いたいことがわかった。
 数日前、港町パッツィオでの騒動の際にロレンスはホロの狼《オオカミ》の姿に恐れをなして後ずさってしまった。それに傷ついたホロはロレンスの前から立ち去ろうとし、それを止めた時のロレンスの策というのが、ホロが破いた服の代金を北の森にまで取り立てに行くというものだった。
 なにがなんでも取り立ててやるから、今|俺《おれ》の目の前を立ち去っても無駄《むだ》だ、と言ったのだ。
 結局ホロは北の森にまで取り立てに来られては迷惑《めいわく》だから、ということでロレンスの元にとどまってくれたのだが、金の取り立て云々《うんぬん》は互いにとっての口実だとロレンスは思っている。
 いや、信じている。
 仮にホロが借金を返したとしても、北の森に帰るまでは自分との二人旅を望んでいるはずだと信じている。もちろん、気恥ずかしくて口になど出せはしないが。
 そして、ホロは今それを逆《さか》手《て》にとっていた。互いに口実だということがわかっていながら、だからこそそれを取引材料に引っ張り出してきているのだ。
 胸中に躍《おど》り出たのは短い単語。
 ずるい。ホロは本当にずるい。
「そんならちゃっちゃと返して北に帰るかや。パロやミューリは元気かやあ」
 ホロは反対側に顔を向けて、わざとらしく小さいため息をついた。
 ロレンスは言葉につまり、隣《となり》に座る小さくて憎《にく》らしい狼《オオカミ》娘《むすめ》を苦りきった顔で睨《にら》みつける。なにをどう切り返せばいいのか、と。
 ここでロレンスが意地になって、ならばさっさと借金を返してどこへなりとも行けばいいとでも言えば、ホロは本当にやりかねない感じがする。もしそうなれば、それはロレンスの望むことではない。ここが、ロレンスの泣きどころだ。
 ホロは本当に可愛《かわい》くない。
 ロレンスは、ホロを睨みながら必死に切り返しを考えるが、ホロは相変わらずそっぽを向いたままだ。
 どれくらいの時間そうしていたのか。
 結局、音《ね》を上げたのはロレンスだった。
「……借金は返済期限を決めていない。北の森に着くまでに返してくれればそれでいい。これでいいか?」
 ただ、ロレンスにも意地というものがある。胸のうちの感情をそっくりそのままこの生意気な狼娘に言うことはできない。だから、降参もこれが精一杯だ。
 そして、そこのところはホロもわかっているようだ。ホロはゆっくりと振り向いて、満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「うん。わっちはきっと北の森に着くころに借金を返せるじゃろうからな」
 わざとらしくそう言って、それから身を寄せてきた。
「それと、わっちはぬしの借金に利子をつけて返すつもりじゃ。つまりは貸し付けている金は多いほうがぬしも儲《もう》かるということじゃ。じゃから、な?」
 ホロの目がロレンスのことを見上げてくる。
 赤味がかった琥《こ》珀《はく》色《いろ》の、綺《き》麗《れい》な目だ。
「油……か?」
「うん。わっちの借金でよいから、買ってくりゃれ?」
 なんともおかしな理屈だが、ニコニコと笑うホロに言い返す術《すべ》をロレンスは持たない。
 だから、結局、ロレンスは力尽きるように首を縦《たて》に振るしかなかったのだった。
「あんがと」
 しかし、そんなふうに言ってから猫《ネコ》が甘えるように肩《かた》に身をすり寄せてくれば、ロレンスも悪い気はしない。
 ホロの思う壷《つぼ》だとはわかっていたが、それも独り身の長かった行商人の悲しい性《さが》だった。
「しかし、ぬしは実際のところかなり値切ったんじゃないのかや」
 ロレンスにもたれかかったまま再び尻尾《しっぽ》の手入れを始めたホロが何気なく聞いてきた。
 この狼《オオカミ》は人の嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]を見抜くことができる。嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]をついても仕方ないと思い。正直に答えた。
「値切った、というか、向こうが値下げせざるを得ないように事を運んだ」
 ただ、武具はあまり利率がよくない。一番|儲《もう》かるのは武具の材料を輸入して組み立ててそれを売ることだ。完成した武具を運んで売る商売は、武具が常日頃から大量に必要とされている場所に持っていけば手《て》堅《がた》く儲《もう》かるというだけで、値切ったところでたかが知れている。
 ロレンスがポロソンからその荷を積んでリュビンハイゲンに向かっているのも、その手堅さが理由だ。
「どれくらい?」
「それを聞いてどうするんだ」
 寄りかかったままのホロは顔をあげてロレンスのことをちらりと見て、それからすぐに視線を戻す。
 それでなんとなくわかった。
 油のねだり方は強引だったくせに、ロレンスの儲けのことを気にしてくれているのだ。
「なに、あまり羽振りのよくない行商人にたかるのもよくないかやと思っての」
 しかし、出てきたのは憎《にく》まれ口だったので軽く頭を小突いておいた。
「武具はリュビンハイゲンじゃ一番の売れ筋だが、持ち込む商人の数も多い。そのせいで自然と利率は下がるから値切ったところでたかが知れてるんだよ」
「でもこれだけ買っておれば儲かるじゃろう?」
 荷台に満載《まんさい》とはいわなくても結構な量だ。手堅い商品と言うこともあって利率は低いものの、それは投資金額に対する比率であって、絶対的な量を見れば明らかにうまい。しかも今回は財産の倍というとんでもない金額をつぎこんでいるのだ。塵《ちり》も積もればなんとやらで、胡《こ》椒《しょう》に次ぐ利益になるかもしれない。
 本当なら、油どころか荷台に載《の》りきらないほどの林檎《リンゴ》を買ってやってもかまわないくらいの利益が出るのだが、それを言えばホロがどんな要求をしてくるかわかったものではないので黙っておいた。
 だから、そこらへんがわからないホロは気も漫《そぞ》ろに尻尾《しっぽ》をいじっている。
 そんな様子を見ると、さすがにロレンスの胸にも罪悪感が生まれてきた。
「ま、お前の油代くらいは儲《もう》かる」
 しょうがないのでそう言ってやると、ホロはほっとするようにうなずいたのだった。
「しかし、そう考えると香辛《こうしん》料《りょう》はやはりうまいな」
 武具の仕入れ値と儲けの概算《がいさん》をしてみて、思わず呟《つぶや》いてしまう。
「食べたのかや」
「お前と一緒にするな。儲《もう》けが、だ」
「ふん。ならまた香辛《こうしん》料《りょう》を持っていけばよかろう」
「リュビンハイゲンとポロソンじゃ大して値段が変わらない。関税がかかるだけ損だ」
「なら諦《あきら》めることじゃ」
 にべもなく言って、尻尾《しっぽ》の先端を噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]んでいる。
「香辛料並みか、それ以上の利率の商売ができれば店なんかすぐなんだがな」
 金を貯《た》めて自前の店を持つことがロレンスの夢だ。数日前の港町パッツィオでの大騒ぎから大きく利益を引き出したものの、まだその道のりは遠い。
「なにかないのかや。例えば……宝石とか、金《きん》とか定番じゃないのかや」
「そのあたりもリュビンハイゲンに限ってはあまり儲からないんだよな」
 毛を舐《な》めている最中に鼻に毛でも入ったのか、ホロが小さくくしゃみをする。
「ぐず……なんでじゃ」
「関税が高すぎるんだよ。保護政策、ってやつだな。一部の商人たちを除いて、輸入しようとする金に物凄《ものすご》い関税をかけるんだ。そのせいでとても商売になりゃしない」
 商業基盤が脆《ぜい》弱《じゃく》なところではあらゆる商品についてこういった保護政策が取られる町が少なくない。
 しかし、リュビンハイゲンのそれは明らかに独占的な儲けを得るためのものなのだ。リュビンハイゲンの聖堂に金を持っていき、いくらか寄付をすると聖堂の聖なる刻印を金に刻んでもらえるのだが、その刻印が彫られた金というものは旅の安全や将来の幸福、それに戦の時の身の安全や武《ぶ》勲《くん》にもご利益《りやく》があり、さらには死後の幸福までもを約束してくれる聖なる金としてとてつもない高値がつく。
 リュビンハイゲンを牛《ぎゅう》耳《じ》る聖堂|参《さん》事《じ》会の連中は子|飼《が》いの商人と結託してその利益を独占するために、町に入る金の量を調整する目的で恐ろしい金額の関税を設けているし、密輸に対しても徹底的な厳罰主義を採っている。
「ふうん」
「もし密輸ができたのなら、そうだな、十倍くらいの値段で売れるだろうな。その分危険が伴うわけだから、低い利率でつつましく稼《かせ》ぐしかないわけだが」
 ロレンスは肩をすくめながらはるか道の彼方《かなた》に思いを馳《は》せる。
 リュビンハイゲンほどの町にもなれば、ロレンスが一生かけて稼《かせ》ぐような金を一日で稼ぎ出す商人がごろごろいるのだ。
 なにかそれがとても理《り》不《ふ》尽《じん》なような、それどころか理不尽すぎて不思議なような気さえした。
「そうかや?」
 ただ、そんなホロの言葉が振って湧《わ》いた。
「なにか当てがあるのか?」
 賢狼《けんろう》を自称するホロのこと、なにか思いもよらぬ考えがあるのかもしれない。
 期待のまなざしでそちらを向くと、ホロは櫛《くし》に絡《から》まった毛を取る手を止めて不思議そうにロレンスのことを見上げたのだった。
「隠《かく》して持ち込めばよかろ?」
 いつもこれくらい間抜けだと可愛《かわい》いのだが、と胸中で呟《つぶや》いてしまうほど間抜けな答えだ。
「それができたら皆やってるだろう」
「なんじゃできんのや」
「関税が高ければ密輸も増えるのが世の常だ。荷物の検査は厳しい」
「少量ならばれぬじゃろ」
「見つかれば最低で利き腕《うで》の切断刑だ。冒《おか》す危険と報《ほう》酬《しゅう》が見合うとは思えない。大量に持ち込む方法があれば別だが……とても無理だろうな」
 ホロは最後に尻尾《しっぽ》を丁寧《ていねい》に手で撫《な》でて、満足げにうなずいた。ロレンスから見ればさして変わらないような気がするのだが、ホロなりに満足する毛の整え方があるらしい。
「確かにの。ま、ぬしの商売は順調なんじゃ。地道に稼《かせ》いでいればよかろ」
「まったくそのとおりだが、その地道な利益を浪費する誰かさんがいるんだがな」
 もそもそと尻尾をしまったホロはそんな挑《ちょう》発《はつ》には乗らぬとばかりにあくびをして、目《め》尻《じり》の涙《なみだ》をこすりながら体を起こして荷台へと移っていった。
 ロレンスも別に本気で言っていたわけではない。ホロを目で追うのをやめて前を向く。一人だけ寝に入ろうとすることに関しても、言っても無駄《むだ》なので諦《あきら》めた。
 しばらくは後ろのほうからごそごそと武具を移動させて寝《ね》床《どこ》を作る音がしていたが、やがて静かになって満足げなため息が聞こえてきた。
 まるっきり犬か猫《ネコ》みたいなそんな様子を背後に感じているだけで少し笑えてきてしまう。
 色々な意味で口には出せないが、やはりホロにはいてほしいと思う。
 ロレンスがそんなことを思っていると、ふとホロが声をかけてきた。
「言うの忘れておったが、あの商会から巻き上げたぶどう酒、独り占めするつもりはありんせん。夜になったら一緒に飲みんす。干し肉も一緒じゃ」
 少し驚いて後ろを振り向くと、ホロはすでに丸まっていた。
 ただ、そんな様子に再度自然と顔が笑みに変わる。
 再び前を向いて手綱《たづな》を握り直す。
 ロレンスは、なるべく馬車を揺らすまいと馬を操ったのだった。
by musicometgirl | 2008-02-24 23:17
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