第一幕III

 春の病、というのがある。
 冬、海や川から遠い地方の人たちの食生活は極端に偏《かたよ》る。それこそ雪が降り川が凍《こお》るところなどでは毎日毎日塩|漬《づ》け肉と固いパンだけで暮らすことになる。霜が降りる場所でも野菜がまったく育たないわけではないが、冬の野菜は食べるよりも売ったほうが得だ。野菜は食べても暖かくならないが、野菜を売った金で薪《まき》をたっぷり買えば暖《だん》炉《ろ》の火は大きくなるからだ。
 ただ、肉ばかり食べて酒ばかり飲んでいると、大体春頃に全身に発疹《ほっしん》が出る病気にかかる。
 それが春の病と呼ばれるもので、不《ふ》摂生《せっせい》の証《あかし》みたいなものだ。
 もちろん、なるべく肉の誘惑《ゆうわく》に負けずぶどう酒の心地よさにも溺《おぼ》れなければこの病気はほとんどでないことがわかっている。毎週日曜日の教会の説教でも、野菜を食べて肉を控えよと事あるごとに言われる。
 だから、春頃にこの病気にかかる者は教会の神父たちにこっぴどく怒られる羽目になる。
 過大な食欲は神が定める七つの罪のうちの一つなのだ。
 それを知っているのかいないのか。
 ロレンスは、ホロの食欲に呆《あき》れるようにため息をついたのだった。
「げふ……。うまかった」
 上等の羊肉をこれまた上等なぶどう酒で流し込めばそれはご機《き》嫌《げん》になるというものだ。
 しかもそれらは全部タダの上、食って飲んで眠《ねむ》くなっても荷台で丸くなればいいときている。
 どんなに浪費家の商人であっても次の日の商売のことを考えれば自ずと制限をかけるものだが、ホロにそんなものはない。
 喜《き》色《しょく》満面《まんめん》で足をパタパタさせながら食べて飲んで、ようやくひと段落ついたというところだ。
 もしもロレンスが旅の糧食《りょうしょく》としてそれらを配分するのなら、三週間は持たせる自信があるくらいの量で、ぶどう酒にいたってはどこにそれだけ入るのかという量を飲み干していた。
 それに、ラトペアロン商会の主人から巻き上げた肉とぶどう酒を右から左に売りさばけばホロの借金はだいぶ減っただろう。
 ロレンスは、そういう意味でも呆れていたのだった。
「さて、わっちはそろそろ寝るかや」
 だから、自《じ》堕《だ》落《らく》の見本のようなその発言を聞いても視線すら向けなかった。
 ラトペアロン商会から肉とぶどう酒を巻き上げたうえ、さらに格安で大量の武具を仕入れたロレンスたちは、昼の鐘が鳴るのを待たずにポロソンの町を出た。それからさして時間も経《た》っていないので、今はようやく太陽が頭上を越えたというところだ。
 よく晴れて陽《ひ》もさしていて、昼酒を飲んでごろ寝するには絶好の日和《ひより》だろう。
 多少荷台が武具のせいで雑然としてはいるが、酒が入っていれば気にならないはずだ。
 それになによりロレンスたちがリュビンハイゲンに向かって進んでいるその商業路は、ポロソンの町から出た直後こそ坂が急だったり曲がりくねったりしていたものの、今はもう見晴らしのよいゆるやかでだたっ広い下り坂の道になっている。
 そんな道が延々と続いているのだ。
 しかもよく使われる道なのできちんと踏み固められているし、開いた穴はふさがれている。
 寝《ね》床《どこ》に例え剣の柄《つか》をぎっしり敷き詰めても、その上に寝転がれば優雅な午後のひと時を過ごせることは間違いない。
 だから、一人酒も飲めず馬の尻《しり》を見つめながら手綱《たづな》を握るしかないロレンスは、羨《うらや》ましさも手伝って決してホロのほうを見なかったのだった。
「む、その前に尻尾《しっぽ》の手入れをせんとな……」
 そして、そんなところだけ勤勉なホロがもそもそと尻尾を取り出しても、やはり注意する気すら起きなかった。
 もっとも、見晴らしのよい道なので突然誰かと出くわすという危険もないのだが。
 そんなわけでホロは櫛《くし》で尻尾の毛を漉《す》き始め、時折手で蚤《のみ》かなにかをつまんだり毛を舐《な》めたりしている。
 一心不乱に黙々と作業をするあたり、よほど尻尾に気を使っていることが窺《うかが》える。
 こげ茶色の毛が覆《おお》う付け根のほうから作業の手を進めていって、その手が白い毛に覆われる尻尾の先のほうに到達してふと顔を上げた。
「あ、そうじゃ」
 なだらかな道と暖かい日差しでうとうととしかけていたロレンスはその声でハッと我に帰る。
「……どうした」
「次の町に着いたら油が欲しい」
「……。油?」
 大きくあくびをしながら問い返す。
「うむ。尻尾の手入れに使うとよいと聞いたことがある」
 ロレンスは、無言で視線をホロから前方へと向けようとした。
「買ってくりゃれ?」
 ホロは小首をかしげ、笑顔でそう言った。
 金持ちの男ならずとも色々買ってやりたくなるような笑顔だが、ロレンスはそれをちらりと横目で見ただけだ。
 ロレンスの目の前には、ホロのそんな笑顔よりも大きく数字が飛び交っていた。ホロがロレンスに対して背負っている借金の金額だ。
「お前の着ているその服と、予備の服と、櫛《くし》と、旅費と、酒代と、食費を計算したことはあるか? 町に入る時の人頭税だってある。よもや足し算ができないわけではあるまい?」
 ホロの口|真似《まね》をしてそう言ってやったのだが、ホロは依然として笑顔のままだった。
「足し算くらいできるわいな。足し算どころか引き算も得意じゃ」
 それから、なにが面白いのかくすくすと笑った。
 ロレンスはホロがなにかすごい切り返すを秘めているのかと勘《かん》ぐってしまったが、ちょっと様子がおかしい。もしかしたら酔っ払っているのかもしれない。
 荷台に置かれているぶどう酒を入れる皮袋をちらりと見る。ラトペアロン商会から巻き上げたぶどう酒は皮袋五つ分で、そのうち二つが空になっていた。
 酔っていてもおかしくはない。
「なら、自分がいくら使ったかを足し算してみることだ。頭のよい賢狼《けんろう》なら、その数字から俺《おれ》の答えが簡単にわかるだろう?」
「うん。わかりんす」
 ホロは笑顔のまま素直にうなずいた。
 いつもこれくらいならいいのだが、と思って前を向くと、ホロが言葉を続けてきた。
「きっと、ぬしは買ってくれる」
 横目で見ると、ホロはにこーっと笑っている。やはり酔っ払っているのだろう。可愛《かわい》い笑顔だった。
「賢《かしこ》さが自《じ》慢《まん》の賢狼も酒に酔っちゃあ形《かた》なしだな」
 独り言のように言いながら笑うと、ホロの首がかくんと反対側にかしげられた。
 酔っ払って御者《ぎょしゃ》台から落ちたら怪我《けが》をするかもしれない。ロレンスはホロの細い肩《かた》に手を伸ばそうとしたのだが、その瞬間、ホロは狼《オオカミ》を思わせる俊《しゅん》敏《びん》さでロレンスの左手をつかみとる。
 驚いてホロの目を見ると、その目は酔っ払っても笑ってもいなかった。
「なにせ、わっちのおかげで荷台の荷物を安く仕入れられたんじゃからな。さぞ儲《もう》けが出るんじゃろうよ」
 ホロは、全然可愛くなどなかった。
「な、なにを根拠《こんきょ》に――」
「わっちを見くびってもらっちゃあ困るのう。ぬしが喜《き》色《しょく》満面《まんめん》、強気にあの主人と交渉しとったのを見てなかったとでも思うのかや。わっちは器量も頭も目もよいが、当然のことながら耳もよい。ぬしの交渉が聞こえてなかったわけがない」
 ホロが二本の牙《きば》を見せながらにやりと笑った。
「油、買ってくりゃれ?」
 ロレンスがこれ幸いと弱みにつけ込んだ交渉をしたのは間違いのないことで、ほとんど思いどおりにことが運んだのも事実だ。
 あの時、ホロの目の前で意気|揚々《ようよう》と契約を推し進めた自分を罵《ば》倒《とう》したかった。
 儲《もう》かっていそうだなとわかれば、たかりたくなるのが人の性《さが》だからだ。
「く、だ、だけどな、お前は俺《おれ》にいくら借金があると思ってるんだ。銀貨百四十枚だぞ。それがどれほどの大金かわかっているのか? この上余計なものまで買ってやれるか」
「うん? なんじゃ、ぬしはそんなに借金を返して欲しいのかや?」
 ロレンスの反撃に、ホロは少し驚いたような顔をしてロレンスのことを見る。
 まるで、いつでも借金など返せるといわんばかりだ。
 貸している金を返してもらいたくない人間などいない。ロレンスはホロのことを睨《にら》みつけながらはっきりと言ってやった。
「あ、た、り、ま、え、だ」
 ホロが使った金を耳を揃《そろ》えて返してくれれば、荷台に載《の》せる品物の量も質も上げることができる。そうすれば利益もうなぎのぼりだ。資本が多ければ利益も多くなるのは、商売の基本中の基本だからだ。
 ただ、ロレンスの言葉にホロは表情を一変させた。「あ、そ」と言わんばかりの冷めた表情だ。
 まったく予想していなかった種類の表情に、ロレンスは再度たじろいでしまう。
「ぬしがそんなふうに思っていたとはの」
 それから、そんなことを言った。
「……ど、どういう」
 意味だ、という言葉はホロの矢継ぎ早の言葉にかき消される。
「ま、ぬしに借金を返したら、わっちは自由の身じゃからな。そうじゃな。さっさと返すかや」
 その言葉で、ホロの言いたいことがわかった。
 数日前、港町パッツィオでの騒動の際にロレンスはホロの狼《オオカミ》の姿に恐れをなして後ずさってしまった。それに傷ついたホロはロレンスの前から立ち去ろうとし、それを止めた時のロレンスの策というのが、ホロが破いた服の代金を北の森にまで取り立てに行くというものだった。
 なにがなんでも取り立ててやるから、今|俺《おれ》の目の前を立ち去っても無駄《むだ》だ、と言ったのだ。
 結局ホロは北の森にまで取り立てに来られては迷惑《めいわく》だから、ということでロレンスの元にとどまってくれたのだが、金の取り立て云々《うんぬん》は互いにとっての口実だとロレンスは思っている。
 いや、信じている。
 仮にホロが借金を返したとしても、北の森に帰るまでは自分との二人旅を望んでいるはずだと信じている。もちろん、気恥ずかしくて口になど出せはしないが。
 そして、ホロは今それを逆《さか》手《て》にとっていた。互いに口実だということがわかっていながら、だからこそそれを取引材料に引っ張り出してきているのだ。
 胸中に躍《おど》り出たのは短い単語。
 ずるい。ホロは本当にずるい。
「そんならちゃっちゃと返して北に帰るかや。パロやミューリは元気かやあ」
 ホロは反対側に顔を向けて、わざとらしく小さいため息をついた。
 ロレンスは言葉につまり、隣《となり》に座る小さくて憎《にく》らしい狼《オオカミ》娘《むすめ》を苦りきった顔で睨《にら》みつける。なにをどう切り返せばいいのか、と。
 ここでロレンスが意地になって、ならばさっさと借金を返してどこへなりとも行けばいいとでも言えば、ホロは本当にやりかねない感じがする。もしそうなれば、それはロレンスの望むことではない。ここが、ロレンスの泣きどころだ。
 ホロは本当に可愛《かわい》くない。
 ロレンスは、ホロを睨みながら必死に切り返しを考えるが、ホロは相変わらずそっぽを向いたままだ。
 どれくらいの時間そうしていたのか。
 結局、音《ね》を上げたのはロレンスだった。
「……借金は返済期限を決めていない。北の森に着くまでに返してくれればそれでいい。これでいいか?」
 ただ、ロレンスにも意地というものがある。胸のうちの感情をそっくりそのままこの生意気な狼娘に言うことはできない。だから、降参もこれが精一杯だ。
 そして、そこのところはホロもわかっているようだ。ホロはゆっくりと振り向いて、満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「うん。わっちはきっと北の森に着くころに借金を返せるじゃろうからな」
 わざとらしくそう言って、それから身を寄せてきた。
「それと、わっちはぬしの借金に利子をつけて返すつもりじゃ。つまりは貸し付けている金は多いほうがぬしも儲《もう》かるということじゃ。じゃから、な?」
 ホロの目がロレンスのことを見上げてくる。
 赤味がかった琥《こ》珀《はく》色《いろ》の、綺《き》麗《れい》な目だ。
「油……か?」
「うん。わっちの借金でよいから、買ってくりゃれ?」
 なんともおかしな理屈だが、ニコニコと笑うホロに言い返す術《すべ》をロレンスは持たない。
 だから、結局、ロレンスは力尽きるように首を縦《たて》に振るしかなかったのだった。
「あんがと」
 しかし、そんなふうに言ってから猫《ネコ》が甘えるように肩《かた》に身をすり寄せてくれば、ロレンスも悪い気はしない。
 ホロの思う壷《つぼ》だとはわかっていたが、それも独り身の長かった行商人の悲しい性《さが》だった。
「しかし、ぬしは実際のところかなり値切ったんじゃないのかや」
 ロレンスにもたれかかったまま再び尻尾《しっぽ》の手入れを始めたホロが何気なく聞いてきた。
 この狼《オオカミ》は人の嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]を見抜くことができる。嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]をついても仕方ないと思い。正直に答えた。
「値切った、というか、向こうが値下げせざるを得ないように事を運んだ」
 ただ、武具はあまり利率がよくない。一番|儲《もう》かるのは武具の材料を輸入して組み立ててそれを売ることだ。完成した武具を運んで売る商売は、武具が常日頃から大量に必要とされている場所に持っていけば手《て》堅《がた》く儲《もう》かるというだけで、値切ったところでたかが知れている。
 ロレンスがポロソンからその荷を積んでリュビンハイゲンに向かっているのも、その手堅さが理由だ。
「どれくらい?」
「それを聞いてどうするんだ」
 寄りかかったままのホロは顔をあげてロレンスのことをちらりと見て、それからすぐに視線を戻す。
 それでなんとなくわかった。
 油のねだり方は強引だったくせに、ロレンスの儲けのことを気にしてくれているのだ。
「なに、あまり羽振りのよくない行商人にたかるのもよくないかやと思っての」
 しかし、出てきたのは憎《にく》まれ口だったので軽く頭を小突いておいた。
「武具はリュビンハイゲンじゃ一番の売れ筋だが、持ち込む商人の数も多い。そのせいで自然と利率は下がるから値切ったところでたかが知れてるんだよ」
「でもこれだけ買っておれば儲かるじゃろう?」
 荷台に満載《まんさい》とはいわなくても結構な量だ。手堅い商品と言うこともあって利率は低いものの、それは投資金額に対する比率であって、絶対的な量を見れば明らかにうまい。しかも今回は財産の倍というとんでもない金額をつぎこんでいるのだ。塵《ちり》も積もればなんとやらで、胡《こ》椒《しょう》に次ぐ利益になるかもしれない。
 本当なら、油どころか荷台に載《の》りきらないほどの林檎《リンゴ》を買ってやってもかまわないくらいの利益が出るのだが、それを言えばホロがどんな要求をしてくるかわかったものではないので黙っておいた。
 だから、そこらへんがわからないホロは気も漫《そぞ》ろに尻尾《しっぽ》をいじっている。
 そんな様子を見ると、さすがにロレンスの胸にも罪悪感が生まれてきた。
「ま、お前の油代くらいは儲《もう》かる」
 しょうがないのでそう言ってやると、ホロはほっとするようにうなずいたのだった。
「しかし、そう考えると香辛《こうしん》料《りょう》はやはりうまいな」
 武具の仕入れ値と儲けの概算《がいさん》をしてみて、思わず呟《つぶや》いてしまう。
「食べたのかや」
「お前と一緒にするな。儲《もう》けが、だ」
「ふん。ならまた香辛《こうしん》料《りょう》を持っていけばよかろう」
「リュビンハイゲンとポロソンじゃ大して値段が変わらない。関税がかかるだけ損だ」
「なら諦《あきら》めることじゃ」
 にべもなく言って、尻尾《しっぽ》の先端を噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]んでいる。
「香辛料並みか、それ以上の利率の商売ができれば店なんかすぐなんだがな」
 金を貯《た》めて自前の店を持つことがロレンスの夢だ。数日前の港町パッツィオでの大騒ぎから大きく利益を引き出したものの、まだその道のりは遠い。
「なにかないのかや。例えば……宝石とか、金《きん》とか定番じゃないのかや」
「そのあたりもリュビンハイゲンに限ってはあまり儲からないんだよな」
 毛を舐《な》めている最中に鼻に毛でも入ったのか、ホロが小さくくしゃみをする。
「ぐず……なんでじゃ」
「関税が高すぎるんだよ。保護政策、ってやつだな。一部の商人たちを除いて、輸入しようとする金に物凄《ものすご》い関税をかけるんだ。そのせいでとても商売になりゃしない」
 商業基盤が脆《ぜい》弱《じゃく》なところではあらゆる商品についてこういった保護政策が取られる町が少なくない。
 しかし、リュビンハイゲンのそれは明らかに独占的な儲けを得るためのものなのだ。リュビンハイゲンの聖堂に金を持っていき、いくらか寄付をすると聖堂の聖なる刻印を金に刻んでもらえるのだが、その刻印が彫られた金というものは旅の安全や将来の幸福、それに戦の時の身の安全や武《ぶ》勲《くん》にもご利益《りやく》があり、さらには死後の幸福までもを約束してくれる聖なる金としてとてつもない高値がつく。
 リュビンハイゲンを牛《ぎゅう》耳《じ》る聖堂|参《さん》事《じ》会の連中は子|飼《が》いの商人と結託してその利益を独占するために、町に入る金の量を調整する目的で恐ろしい金額の関税を設けているし、密輸に対しても徹底的な厳罰主義を採っている。
「ふうん」
「もし密輸ができたのなら、そうだな、十倍くらいの値段で売れるだろうな。その分危険が伴うわけだから、低い利率でつつましく稼《かせ》ぐしかないわけだが」
 ロレンスは肩をすくめながらはるか道の彼方《かなた》に思いを馳《は》せる。
 リュビンハイゲンほどの町にもなれば、ロレンスが一生かけて稼《かせ》ぐような金を一日で稼ぎ出す商人がごろごろいるのだ。
 なにかそれがとても理《り》不《ふ》尽《じん》なような、それどころか理不尽すぎて不思議なような気さえした。
「そうかや?」
 ただ、そんなホロの言葉が振って湧《わ》いた。
「なにか当てがあるのか?」
 賢狼《けんろう》を自称するホロのこと、なにか思いもよらぬ考えがあるのかもしれない。
 期待のまなざしでそちらを向くと、ホロは櫛《くし》に絡《から》まった毛を取る手を止めて不思議そうにロレンスのことを見上げたのだった。
「隠《かく》して持ち込めばよかろ?」
 いつもこれくらい間抜けだと可愛《かわい》いのだが、と胸中で呟《つぶや》いてしまうほど間抜けな答えだ。
「それができたら皆やってるだろう」
「なんじゃできんのや」
「関税が高ければ密輸も増えるのが世の常だ。荷物の検査は厳しい」
「少量ならばれぬじゃろ」
「見つかれば最低で利き腕《うで》の切断刑だ。冒《おか》す危険と報《ほう》酬《しゅう》が見合うとは思えない。大量に持ち込む方法があれば別だが……とても無理だろうな」
 ホロは最後に尻尾《しっぽ》を丁寧《ていねい》に手で撫《な》でて、満足げにうなずいた。ロレンスから見ればさして変わらないような気がするのだが、ホロなりに満足する毛の整え方があるらしい。
「確かにの。ま、ぬしの商売は順調なんじゃ。地道に稼《かせ》いでいればよかろ」
「まったくそのとおりだが、その地道な利益を浪費する誰かさんがいるんだがな」
 もそもそと尻尾をしまったホロはそんな挑《ちょう》発《はつ》には乗らぬとばかりにあくびをして、目《め》尻《じり》の涙《なみだ》をこすりながら体を起こして荷台へと移っていった。
 ロレンスも別に本気で言っていたわけではない。ホロを目で追うのをやめて前を向く。一人だけ寝に入ろうとすることに関しても、言っても無駄《むだ》なので諦《あきら》めた。
 しばらくは後ろのほうからごそごそと武具を移動させて寝《ね》床《どこ》を作る音がしていたが、やがて静かになって満足げなため息が聞こえてきた。
 まるっきり犬か猫《ネコ》みたいなそんな様子を背後に感じているだけで少し笑えてきてしまう。
 色々な意味で口には出せないが、やはりホロにはいてほしいと思う。
 ロレンスがそんなことを思っていると、ふとホロが声をかけてきた。
「言うの忘れておったが、あの商会から巻き上げたぶどう酒、独り占めするつもりはありんせん。夜になったら一緒に飲みんす。干し肉も一緒じゃ」
 少し驚いて後ろを振り向くと、ホロはすでに丸まっていた。
 ただ、そんな様子に再度自然と顔が笑みに変わる。
 再び前を向いて手綱《たづな》を握り直す。
 ロレンスは、なるべく馬車を揺らすまいと馬を操ったのだった。
[PR]
# by musicometgirl | 2008-02-24 23:17

第一幕II

 ロレンスは安心して、主人のほうに笑顔を向けた。
「それでは胡《こ》椒《しょう》の計量に参りましょうか」
 その提案を断る理由は存在しなかった。
「えーと、紙とインクが必要ですね。ちょっと待っててください」
 主人は言いながら部屋の隅《すみ》に置かれている棚の引き出しからインク壷と紙を取り出し、ロレンスはそれをぼんやりと眺めながら待っていたのだが、ふと服の裾《すそ》を引っ張られて振り向いた。他《ほか》に誰がいるわけでもない。ホロだ。
「どうした」
「喉《のど》渇《かわ》いた」
「我慢しろ」
 と、とっさに言ってしまってから思い直した。
 賢狼《けんろう》を自称するホロだ。突然|脈《みゃく》絡《らく》もないことを言ったのはなにか含みがあったのかもしれない。
 ロレンスはそう思いなおして聞き返そうとしたのだが、そこに主人が声をかけてきた。
「聖人ですら水なしには生きられませんからね。水がよろしいですか、それともぶどう酒を?」
「水をもらえるかや」
 笑顔で言うのを見ると、どうやら単に喉《のど》が渇《かわ》いていただけのようだった。
「ちょっとお待ちくださいね」
 テーブルの上にメモを兼ねた契約用の紙とインク、それに羽ペンを置くと主人は誰かを呼ぶわけでもなく自分の足で水を取りに部屋から出ていってしまった。
 このあたりは商人というよりも正教徒の鑑《かがみ》のような感じだ。
 ただ、ロレンスはそんな主人に感心しつつ、ホロのことを少し睨《にら》む。
「お前にとっちゃなんでもないことかもしれないが、商談は俺《おれ》たち商人にとっていわば戦いの場所なんだ。水くらい後でいくらでも飲めるだろうが」
「だって喉が渇きんす」
 怒られたのが気に食わなかったのか、むす、としてホロはそっぽを向く、恐ろしいほど頭が回るくせに妙《みょう》なところで子供っぽい。これ以上言っても聞く耳など持たないだろう。
 ロレンスは肩《かた》をすくめると、頭からホロのことを追い出して胡《こ》椒《しょう》の概算《がいさん》に努めたのだった。
 それからしばらくして主人が木のお盆《ぼん》の上に鉄製の水差しとコップを持ってきた。取引相手、しかも年上の商人にこんなことをさせてしまってロレンスは文字どおり恐縮ではあったが、主人は商談抜きといった顔で笑っていた。
「それでは計量といきましょう」
「はい」
 少し離れた壁際で、鉄製のコップを両手で持ちながら水を飲むホロに見守られ、胡椒の計量が始まった。
 計量そのものは単純なもので、片方の計量皿に分銅《ぶんどう》を載《の》せ、もう片方の計量皿の上に胡椒を載せていく。釣《つ》り合った場所で一回計量皿の上の胡椒を別の場所に置き、また皿の上に新しい胡椒を載せて釣り合いを量《はか》る。
 単純な作業だが、例えばわずかに分銅側に傾いた状態でも、面倒くさいからこのままでいいやと次の計量に移っていけば、その積み重ねで思わぬ大損を招くことがある。
 だから主人とロレンスの二人は天秤《てんびん》の釣り合いを確かめ合い、お互いが納得のいった場所で次の計量に移る。
 単純な割には神経を使う作業だったが、それも四十五回ほどで終わった。胡椒の産地にもよるが、ロレンスが持ち込んだものは大体分銅一個と釣り合う量でリュミオーネ金貨と呼ばれる貨《か》幣《へい》一枚分に相当するはずだ。ロレンスの知る貨幣相場で計算するならば、港町パッツィオでよく流通していたトレニー銀貨三十四枚と三分の二がリュミオーネ金貨一枚に相当する。それが四十五枚だから、トレニー銀貨にして千五百六十枚だ。
 仕入れ値がトレニー銀貨千枚だから、概算して銀貨五百六十枚の利益になる。香辛《こうしん》料《りょう》の貿易はやはりうまい。もっとも、金や宝石、それに高級染料の原料などになると仕入れ値の二倍や三倍で売れる場合がある。それから比べれば些《さ》細《さい》な儲《もう》けではあったが、野を行く行商人としてはこれで十分すぎるほどの利益率だ。金のない行商人などは、燕麦《えんばく》という最低ランクの麦を自らの肉体の限界まで背負って山を越え、ぼろぼろになって町に売りつけてようやく一割の儲け、などということがざらなのだ。
 軽い胡《こ》椒《しょう》を皮袋一杯分運んで銀貨五百枚の儲けは、あまりにもうますぎる商売といえた。
 ロレンスは、笑顔で胡椒を皮袋に詰め直したのだった。
「えーと、分銅《ぶんどう》四十五個分ですね。それで、こちらの胡椒の産地は?」
「リードン王国のラマパタから輸入された品です。こちらが輸入を請《う》け負ったミローネ商会の証明書です」
「ラマパタ産ですか。これはまた遠いところから旅をしてきた胡椒だ。私などでは想像もつかない場所です」
 ロレンスが差し出した羊《よう》皮《ひ》紙《し》の証明書を受け取りながら、主人は目を細めて笑う。
 町商人は大抵自分の生まれた町から外に出ることなく一生を終える。時折引退してから巡《じゅん》礼《れい》の旅に出る商人もいるが、現役の間はそんなことをしている暇などない。
 ただ、旅から旅の行商人であるロレンスでも、リードン王国という場所は香辛《こうしん》料《りょう》の名産地として話は聞いていても、どんな国なのかはわからない。パッツィオからだといったん川を下り海に出て、そこから南に向かって色の違う海を二つ越えた先にあり、巨大な超長距離用の船でおよそ二月《ふたつき》の航海になるという。
 言葉はもちろん通じず、聞いた話によるとリードン王国は年中真夏でとても暑く、国の者たちは皆日焼けして生まれた時から真っ黒だという。
 とても信じられはしない話だったが、そこから来たという香辛料や金《きん》や銀や鉄があるのだし、なにせミローネ商会がその名誉にかけてこの胡椒はラマパタから運ばれてきたものだという証明書を書いているのだ。
 やはり実際に存在する国なのだろう。
「証明書も本物のようですね」
 町商人の元を通過する為替《かわせ》通知書や信用手形、それに契約書の類《たぐい》は膨大《ぼうだい》なものになる。異国の地に本店を構える大商会はもちろん、遠い国の小さな商会の発行したものであってもその筆跡で見分けられるという。
 ミローネ商会ほど大きな商会の契約書であれば見慣れたもので、その印《いん》の真《しん》偽《ぎ》も瞬時に見分けられるのだろう。サインも大事だが、契約書の命は判《はん》子《こ》が押されたその印だ。
「それでは、こちらの分銅一つでリュミオーネ金貨一枚。これでいかがでしょうか」
「リュミオーネ金貨の相場はおいくらでしょうか」
 ある程度金貨の相場は把《は》握《あく》しているとはいっても、ロレンスは即座にそう聞いた。
 金貨はほとんどが計算|貨《か》幣《へい》として用いられるからだ。つまり金貨は単なる計算基準として用いられ、世にたくさんある様々な貨幣の価値基準となる。計算は金貨で行って、改めて支払う貨幣を決めるのだ。ただ、そうなると当然支払われる貨幣との相場が問題となる。
 ロレンスが最も緊張する瞬間だ。
「ロレンスさんは確か、お師《し》匠《しょう》の後を継いで聖人メトロギウスの巡《じゅん》礼《れい》路《ろ》を基準にした行商でしたよね」
「ええ。聖人メトロギウスの御加護か、道中も安全で商売も順調です」
「だとすると、主要貨幣はトレニー銀貨でよろしいですか」
 行商人たちは験担《げんかつ》ぎをする者が多く、ぐるぐると回る行商路も好き勝手に決めるのではなく、その昔聖人が歩いたとされる巡礼路を基礎にするのが普通だ。
 そして、そうなると行商人が使う貨幣は自ずと決まってくる。
 ただ、それが即座に出てくるあたり、ラトペアロン商会の主人は並々ならぬ一流の商人ということだろう。
「トレニー銀貨ですと、三十二枚と六分の五、こちらが相場です」
 記《き》憶《おく》の中のそれよりも相場が低い。
 しかし、それはこの町が重要な貿易地点になっていることをかんがえれば許容できる範囲だ。
 たくさんの町からたくさんの貨《か》幣《へい》が大量になだれ込む場所では、総じて計算貨幣に対して実在の貨幣の価値が低くなる。
 ロレンスの頭が電光《でんこう》石《せっ》火《か》の勢いで回転して、胡《こ》椒《しょう》の総額はトレニー銀貨千四百七十七枚あたりだと計算結果をはじき出す。
 予想より低いが、それでもまずまずといえる値段だ。これでまた、店を持つ夢に大きく近づいた。
 ロレンスは息を大きく吸い込んで、主人のほうに右手を差し出した。
「その値段でよろしくお願いします」
 主人の顔も満面の笑みになり、手を伸ばしてきた。商人の気分が最も高揚する、契約がまとまろうという瞬間。
 まさしくその瞬間だった。
「うーむ……」
 ホロのそんな間の抜けた声が間に割って入ったのだ。
「どうなされました?」
 ロレンスと共にホロのほうを向いた主人が、壁際でゆらゆらとふらついているホロを見て心配そうに声をかける。
 しかし、ロレンスは瞬時にミローネ商会での毛皮取引のことを思い出して緊張が走る。
 この主人は一人で店を切り盛りしてきた一流の商人だ。そんじょそこらの悪知恵では絶対に切り返されて痛い目を見る。
 いくらホロといえど、そう毎回毎回悪知恵が働くわけでもあるまい。
 ロレンスはそう思ったものの、次いで「おや」と思った。ホロの様子が変だったのだ。
「う、む、ちょっと、眩暈《めまい》が……」
「おお、それはいけません」
 コップを手にしているホロの揺れは少しずつ大きくなって、今にもコップの中の水がこぼれそうだ。
 主人は心配そうにホロの元に歩み寄り、コップを支え、細い肩《かた》を支える。
 ホロも主人に少しもたれかかるようにして体勢を立て直し、小さくお礼などを言っている。
 本当に単に眩暈を起こしただけなのかもしれない。ロレンスもホロの側《そば》に歩み寄った。
「落ち着かれましたか?」
「……だいぶ。ありがとう」
 弱々しくそう言って、主人に支えられながらようやくまっすぐに立つ。
 そんな様子は断食《だんじき》を繰り返して貧血を起こした修道女のようだ。熱心な正教徒の主人でなくとも支えになってやりたくなるというものだが、ロレンスは少し妙《みょう》なことに気がついた。
 フードの下の狼《オオカミ》の耳が、あまりしおれていないようなのだ。
「長旅で疲れが出たのでしょう。旅は大《だい》の男でも疲れるものですから」
 ホロは小さくうなずいて、それからゆっくりと口を開く。
「確かに旅の疲れかもありんせん。なにやら突然目の前が傾いたような気がして……」
「それはいけません。そうだ。元気づけに今朝《けさ》絞《しぼ》られたばかりの山羊《ヤギ》のミルクをお持ちしましょう」
 人のよさそうな主人は、ホロに椅子《いす》を勧めると返事を待たずに早速山羊のミルクを取りにいこうとした。
 ホロが、勧められた椅子に座る前に手に持ったままだった鉄製のコップをテーブルに置こうとしたことになにかの予感を感じたのは、ロレンスだけだっただろう。
「ぬし様よ」
 と、ホロがテーブルにコップを置こうかというところで主人の背中に声をかけた。
「わっちはまだ眩暈を起こしているようでありんす」
「なんと。お医者様をお呼びしますか?」
 振り向いた主人は心底《しんそこ》心配そうな顔だ。
 だが、対するホロのフードの下の顔は、とても眩暈など起こしているような弱々しいものではなかった。
「ほれ、このとおり。わっちの目の前の物が傾いていんす」
 そう言ってホロが木のテーブルの上にコップの水を少し垂らすと、水がつつーっと迷うことなく右のほうに流れていき、小さな音をたててテーブルの隅《すみ》から床《ゆか》へと零《こぼ》れ落ちた。
「!」
 ロレンスはその瞬間に目を見開き、慌《あわ》ててテーブルに歩み寄って天秤《てんびん》に手をかける。
 先ほど丹念《たんねん》に釣《つ》り合いを確かめた天秤だ。その釣り合いのわずかなずれが大損につながると、そう思って確かめた天秤はテーブルの上を流れていった水に平行に置かれている。
 そこから導かれる結論。
 計量が終わり、片方の量《はか》り皿にだけ分銅《ぶんどう》が乗っている天秤を手にとり、向きを逆にして分銅を取り除いてみる。
 持ち上げたせいで釣り合いが揺れたそれは、再び静かにテーブルの上に置くとゆっくりと揺れが収まり、やがて静止した。
 目盛りを見ると、机が傾いているのに見事に釣り合った。もしも天秤が正確なら、机が傾いているのだから釣り合いの位置がずれるはずだ。
 明らかな、細工。
「さて、わっちが飲んだのは水か、ぶどう酒か」
 ホロが主人のほうを振り向いたので、ロレンスもそちらを振り向いた。
 二人の視線を受けた主人は、凍《こお》りついた顔にびっしりと脂汗を浮かべている。
「わっちが飲んだのはぶどう酒じゃ。そうじゃろう?」
 にやりと笑う音が聞こえそうなほど楽しそうなホロの声。
 対する主人の顔は真《ま》っ青《さお》を通り越して土《つち》気《け》色《いろ》だ。この信仰|篤《あつ》い町で天秤に細工をして詐欺《さぎ》同然のことをしていたなどということが公になれば、財産を没収されて即破産ということになる。
「賑《にぎ》やかな酒場の主人ほど酒を飲まない、ということわざがありますが、なるほど、こういうことなんですね」
 弱った商人は兎《ウサギ》のようなものだ。その柔らかいところにずぶりと牙《きば》を突き立てられても、悲鳴一つ上げられない。
 ロレンスは主人を振り返り、笑顔で歩み寄った。
「その場で唯一人|素面《しらふ》でいることが商売|繁《はん》盛《じょう》の秘訣、ということですか」
 流れ出る脂汗で絵が描けそうな勢いだ。
「私も連れと同様酒に酔っていたようです。ですから、ここで見たこと聞いたことのいくつかは忘れてしまうでしょう。その代わり、酔っ払いは得てして無《む》茶《ちゃ》を言うものです」
「……な、なにを」
 主人の顔が恐怖に恐れおののいたものに変わる。
 しかし、ここで腹いせに安《あん》直《ちょく》な行動に出るようでは商人失格だ。
 ロレンスの頭には騙《だま》されたことに対する怒りなど微《み》塵《じん》もない。
 代わりにあるのは、思いもよらずに掴《※つか》[#「※」は「てへん」+「國」、第3水準1-84-89]んだ相手の弱みから、一体どれだけの利益を引き出せるかという冷徹《れいてつ》な計算だ。
 降って湧《わ》いた好機。
 ロレンスは表情を笑顔のまま、口調もいつもの商談用のもので詰め寄った。
「この金と、おそらくあなたが得をすることになった分と、それから、そうですね、信用買いでその倍の買い物をさせてもらえませんか」
 いくらかの現金を担《たん》保《ぽ》にする代わりにそれ以上の金額の買い物をさせろ、ということだ。投資する金額が多ければ多いほど利益が大きくなるのは自明の理。手元に一枚の銀貨しかなくても二枚分の買い物ができれば、儲《もう》けは単純に二倍になる。
 しかし、一枚の銀貨で二枚分の買い物をさせろと言うのだから当然見返りが必要になる。要は金を借りるわけだから、貸すほうには当然見返りを要求する権利がある。
 もっとも、この状況で主人が見返り云々《うんぬん》を言える立場にないことをわかっていてロレンスはこの無《む》茶《ちゃ》な商談を持ちかけている。弱みにつけ込まない商人は三流だ。
「う、あ、し、しかし……それはいくらなんでも」
「無理ですか? 残念だ、私の酔いが覚めてしまいそうです」
 顔が溶《と》けそうなほどの脂汗の中には、いくらか涙《なみだ》が混じっていたかもしれない。
 主人は悲壮な顔をして、がっくりとうなだれたのだった。
「商品は、そうですね。金額が金額ですから、高級武具なんかどうでしょう。リュビンハイゲンに向けた商品がたくさんあるでしょう?」
「……武具、ですか?」
 主人が少し光《こう》明《みょう》を見た、という感じで顔を上げた。ロレンスが借金を踏み倒すことを前提に取引を持ちかけていたと思っていたのかもしれない。
「安全で確実な利益が見込める定番ですよね。それに、これならすぐに借りた金を返せます。どうでしょう」
 リュビンハイゲンは異教徒|討伐《とうばつ》の補給基地という役目も担《にな》っている。そこでは戦に関するあらゆる物が一年を通して飛ぶように売れる。武具なら値段の下落による資本割れも起きにくい
 資本の倍の金額で商品を買えば値下がりの影響も二倍になるから、安定して捌《さば》ける武具は信用買いに適しているといえた。
 主人の顔が計算高い商人のものへと変わっていく。
「武具……ですか」
「リュビンハイゲンならこちらの商会と懇《こん》意《い》の商会もあるでしょうから、そちらに売ることで貸し借りの相殺《そうさい》ということで」
 要はロレンスがラトペアロン商会に借金をして買った武具をリュビンハイゲンの商会に売った後、わざわざ代金を持ってラトペアロン商会まで返しに行かなくてよい、ということだ。
 金のやり取りは特定の相手方となら帳簿の上の足し算引き算で済む。
 商人のすばらしい知恵だ。
「いかがですかね」
 商売用の笑顔、というのは場合によってはなかなかの凄《すご》みが利くものだ。
 その中でもとびっきりのものを顔に貼《は》り付けて主人に迫ると、ラトペアロン商会を切り盛りする男は断れるわけもなく首を縦《たて》に振ったのだった。
「ありがとうございます。では早速商品の手配をお願いできますか。できるだけ早くリュビンハイゲンに行きたいもので」
「わ、わかりました……査定は」
「おまかせします。私は神を信じていますので」
 これ以上ないほどの皮肉に主人の唇《くちびる》が引きつるが、おそらく苦笑いしたのだろう。もちろん、主人は武具を相当安く査定せざるを得ない。
「さて、ぬしらの話は終わったかや」
 そんな強引な商談が終わったのを見計らってホロが言い、主人の口からは「嗚呼《ああ》」というため息が聞こえてきそうだった。厄介《やっかい》な奴がまだいるのだ。
「わっちの酔いも覚めそうなんじゃがな?」
 可愛《かわい》く笑いながら小首をかしげる様《さま》が、きっと悪魔に見えただろう。
「特級のぶどう酒と羊の干し肉があればわっちはご機《き》嫌《げん》じゃ。あ、わき腹の肉がよい」
 遠慮《えんりょ》もへったくれもない言葉に主人はただただ首を縦《たて》に振るだけだ。
「なるべく早くの」
 とはホロのちょっとした冗《じょう》談《だん》だったのだろうが、見事に天秤《てんびん》の細工を見抜いたホロの言葉に、主人は尻《しり》をたたかれたイノシシのごとく部屋から出ていった。
 少しやりすぎな気がしないでもなかったが、天秤に細工をしての詐欺《さぎ》は告発されれば即財産を没収されて破産だ。この程度で済めば安いというものだ。
 だいたい、あのまま気がつかなかったらロレンスも恐ろしい金額を掠《かす》め取られていたことだろう。
「くふふふ。気の毒にの」
 楽しそうに笑いながらも本当に気の毒そうにしているあたりが、実に意地が悪かった。
「しかし、相変わらずよく気がつくな。まったく気がつかなかった」
「わっちは器量も尻尾《しっぽ》の毛並みも頭もよいが、耳や目もよい。この部屋に入った当初から気がついておった。ま、ぬし程度の者をたばかるには相応の手じゃな」
 それから手をひらひら振って、呆《あき》れるようにため息をつく。
 言わせておけば、と思わないでもないが、事実として天秤の細工には気がつかなかったし、ホロがそれに気がついてくれたお陰で大損が転じて大|儲《もう》けになった。
 ここは一つおとなしくしておくべきだろう。
「返す言葉もございませんよ」
 おとなしくそう言うと、ホロはそれが意外だったのか少し目をしばたかせた。
「ぬしも大人《おとな》になったの」
 これにはまさに返す言葉がなく、引きつった苦笑いをしたのだった。
[PR]
# by musicometgirl | 2008-02-24 23:14

第一幕I

「この町に入る金はそのほとんどが北西にある教会都市リュビンハイゲンに流れていくんだがな、あの町でまじめに説教を聞く気にはとてもなれない」
 このあたり一体を取り仕切る教会都市リュビンハイゲンは、そのうち市壁が金《きん》に変わるといわれるほどの金満都市だ。都市を牛《ぎゅう》耳《じ》る聖堂|参《さん》事《じ》会《かい》上層部は、教会が何百年とかけて推し進めてきた異教徒|討伐《とうばつ》すら金|儲《もう》けの足しにしているといわれるくらいで、商人顔負けの司教や司祭がごろごろしている。
 もっとも、だからこそ金儲けの機会も桁《けた》外れに多いのだが、とロレンスが思っていると、ホロが思案顔で首をひねった。
「リュビンハイゲン、と言ったかや?」
「知ってるのか?」
 ホロのことを横目で見つつ、ロレンスは荷馬車を操って二股《ふたまた》に分かれた道を右に入る。
「うむ。思い出した。けど、わっちが聞いたそれは町の名前じゃありんせん。人の名前じゃ」
「ああ、別に間違っちゃいない。今でこそ町の名前だが、元々は異教徒討伐の聖|騎士《きし》団を率いた聖人の名前だ。古い名前で最近じゃああまり聞かないな」
「む。もしかしてそやつのことじゃないかや」
「まさか」
 軽く笑ってしまったが、ふと気がつく。ホロが旅に出たのは数百年も前だということに。
「燃えるような赤い髪《かみ》と髭《ひげ》をボーボーに伸ばしたいかめしい顔をした男じゃ。わっちの可愛《かわい》い耳と尻尾《しっぽ》を見るやいなやわっちのことを悪魔の手先などと呼んで騎士連中と共に剣と槍《やり》で追いかけまわしよった。いい加減腹がたったから元の姿になって騎士どもを蹴散《けち》らし、最後にリュビンハイゲンの尻《しり》に噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みついてやった。筋張っていてうまくなかったがの」
 ふん、と鼻で笑いながら武勇伝を誇らしげに語るホロだが、ロレンスは少しばかり驚いて声が出ない。
 教会都市リュビンハイゲンには、聖人リュビンハイゲンが赤い髪をしていたことや、今は都市のある場所に要塞《ようさい》を築いた当初、異教の神々と戦ったという記録が残されている。
 ただ、聖人リュビンハイゲンが異教の神々と戦った時、不覚ながら食われたのは左|腕《うで》だったという話だ。だから大聖堂の壁画には左腕のない、血にまみれ切り裂《さ》かれたポロを身にまといながらも、果《か》敢《かん》に神の加護を背に騎士団を指示し異教徒に立ち向かう聖人の姿が描かれている。
 聖人リュビンハイゲンの絵が常に裸《はだか》同然のボロをまとった絵というのも、もしかしたらホロが噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]み千切ったせいなのかもしれない。なにせホロの元の姿は実に巨大な狼《オオカミ》だ。軽くじゃれつかれただけで血まみれになりそうな気がする。
 それに、もしホロの話が本当だとしても、尻に噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みつかれたことなど恥ずかしくて話に残せないだろう。そう考えると、左腕だけ食われたなんて話はいかにもとってつけたようなものだ。
 もしかしたら、本当にホロが噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みついた相手は聖人リュビンハイゲンだったのかもしれない。
 歴史の裏話を開いたようで、ロレンスはつい笑ってしまったのだった。
「あ、しかし、ぬしよ」
「ん?」
「わっちは、奴《やつ》に噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みついただけじゃからな? 殺してはおらぬ」
 さっきまでとは違い、ロレンスの反応を窺《うかが》うような表情でホロが言う。
 ロレンスはホロがなにを言っているのか一瞬わからなかったが、ようやく気がついた。
 多分、人を殺したとなれば同じく人であるロレンスが怒ると思ったのだろう。
「変なところで気を遣《つか》うんだな」
「大事なことじゃ」
 ホロが真剣な顔で言うので、茶化すこともなく同意したのだった。
「それにしても本当に退屈な町じゃな。森の中だってここよりも騒がしい」
「胡椒《こしょう》を売ったらすぐに新しい荷を積んでリュビンハイゲンに行くからそれまで我《が》慢《まん》しろ」
「大きい町なのかや?」
「リュビンハイゲンはパッツィオよりでかい。町というより都市だ。賑《にぎ》やかだし露店もたくさんある」
 パッとホロの顔が輝く。
「林檎《リンゴ》も?」
「生《なま》のものはどうだろうな。そろそろ冬に向けて漬物《つけもの》にされていると思うが」
「……漬物?」
 ホロが怪《け》訝《げん》な顔をして聞き返す。北のほうで保存食といえばなんでもかんでも塩だろうから、林檎の塩|漬《づ》けだとでも思ったのだろう。
「蜂蜜《はちみつ》で漬けるんだよ」
 ぴょこん、とホロの頭を覆《おお》うフードの形が変わるほどに耳が動く。
「梨《ナシ》の蜂蜜漬けとかもうまいぞ。あとは、そうだな。珍しいが、桃《モモ》とかもある。それも高級品はあれだ。桃を薄く切って、樽《※たる》[#「※」は「木」+「蹲」の右部分]《たる》の中にどんどん詰めていくんだが、間にイチジクとアーモンドを時折|挟《はさ》んで樽《※たる》[#「※」は「木」+「蹲」の右部分]一杯になったら、その上からたっぷりの蜂蜜を流し込み、最後にショウガを少し入れて漬物にする。食べごろは二ヶ月くらい経《た》ってからだ。一回食べたことがあるが、教会が禁止しょうかと協議するくらいに甘くてな……おい、よだれ垂れてるぞ」
 ロレンスの言葉にホロはハッとなって口元を拭《ぬぐ》う。
 それから、そわそわとあたりを見回して、ふとロレンスのほうを疑わしげに見る。
「ぬし……どうせまたわっちをはめようとしとるのじゃろう?」
「俺《おれ》が嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]《うそ》を言っているかどうかわかるんじゃないのか」
 ホロは言葉に詰まったのか少し顎《あご》を引く。
「嘘《※うそ》[#「※」は「口」+「墟」の右部分、「嘘」の厳密異体字、第3水準1-84-7]じゃないが、あるかどうかわからない。大抵は貴族か金持ち用だからな。そもそも店に並ばない」
「もし、もし並んたら?」
 わさわさわさ、とローフの下で子犬ても暴れているんじゃないかというくらいに尻尾《しっぽ》が暴れ、期待に満ちすぎた目は切なそうに潤《うる》んでいる。
 そんなホロの顔が、ロレンスの肩《かた》の上に乗るほど近づけられた。
 目が、恐ろしいほど真剣だった。
「……わかったよ、買ってやるよ」
 その瞬間、ホロは両手でロレンスの腕《うで》を力一杯に握りしめた。
「絶対じゃな」
 首を横に振れば、そのまま噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みつかれそうだった。
「少しだぞ。少しだからな」
 そう念を押したものの、ホロが聞いているかどうかは怪しかった。
「ぬしよ、約束じゃそ。よいな?」
「わかったわかった」
「じゃあぬしよ、早く行こう。ぬし、早く行こう」
「おい、そんな引っ張るな」
 邪険《じゃけん》に振り払っても、ホロの意識はどこか別の場所に向けられたままのようだ。視線は遠くを見て、中指の爪《つめ》を噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]みながら何事かを呟《つぶや》きはじめた。
「売り切れるかもしれぬ。そうなったらことじゃ……」
 桃《モモ》の蜂蜜《はちみつ》漬《づ》けの話などするんじゃなかったと胸中で呟いたものの、いまさら後の祭りだ。
 これでやはり買わないなどと言ったら噛《※か》[#「※」は「口」+「齒」、第3水準1-15-26]み殺されるかもしれない。
 桃の蜂蜜漬けなど、一介《いっかい》の行商人がおいそれと買えるようなものではないというのに。
「売り切れるどころか売ってないかもしれないからな。その辺のことを理解しておけよ」
「桃と蜂蜜じゃぞ。信じられぬ。とても信じられぬ」
「聞いてるのか?」
「けど、梨《ナシ》も捨てがたいの?」
 逆にホロはロレンスのほうを向いてそんなことを言った。
 ロレンスは、思いきりでかいため息をついて返事としたのだった。

 ロレンスが胡《こ》椒《しょう》を売りに行ったのは、ラトペアロン商会というポロソンの町の名に負けずとも劣らず変わった名前の商会だった。
 おそらく血筋をたどればこの町が町になる前からこの辺りに住んでいる異教徒にたどりつくのだろう。変わった名前は全部大昔の名残《なごり》だという。もっとも、今では頭の先から足の先までどっぷりと正教徒で、これほど熱心な者たちはそうそう見かけないというほどだ。ラトペアロン商会の主人もそろそろ五十を過ぎるということもあり、ますます信仰心に厚みが増しているようだった。
 だから、半年ぶりに商会に足を踏み入れるや久しぶりにこの商会を訪れたロレンスの無事を祝う挨拶《あいさつ》から、新しく教会に来た司祭の説教が実にすばらしいから一度聞きにいくべきだという説得と、いかに説教によって我々の魂《たましい》が救われるかという説教が始まった。
 しかも、商会の主人はローブを身にまとったホロのことを巡《じゅん》礼《れい》中の修道女かと思ったらしく、ホロからもロレンスにもっと厳しく言ってくれるようにと頼んだから最悪だ。
 ホロは心得たとばかりにロレンスのことを散々批判し、ロレンスにだけ見えるようにとニヤニヤ笑っていた。
 ようやく主人とホロの二人の説教から開放された時、ロレンスは絶対に蜂蜜の漬物《つけもの》など買ってやるものかと心に固く誓ったのだった。
「さて、少し長くなってしまいましたが、商談に入りましょうか」
「よろしくお願いします」
 ロレンスは少しぐったりとした様子でそう言ったのだが、途端に主人の顔が商人のものになるから油断ならない。
 もしかしたら、わざと長々と説教をして、相手を弱らせて頭から食べるという商売方法なのかもしれなかった。
「それで、本日はどのような商品を?」
「こちらです」
 ロレンスも気を引きしめ直して胡《こ》椒《しょう》の詰まった皮袋を取り出した。
「おや、胡椒ですか」
 と、袋の口を縛《しば》る革紐《かわひも》を解く前に中身を当てられ内心驚いたものの、なんとかそれを顔に出さずに笑顔で対応した。
「よくわかりましたね」
「匂《にお》い、ですよ」
 いたずらっぽく笑いながら主人はそう言うが、挽《ひ》いて粉にする前の胡椒はそんなに匂わない。
 隣《となり》に立つホロのことを横目で盗《ぬす》み見ると、ホロは面白そうに笑っていた。
「私はまだまだ未熟者のようです」
「年《ねん》季《き》が違いますよ」
 まったく驕《おご》ることもなく穏《おだ》やかに笑う余《よ》裕《ゆう》たっぷりの様子を見る限り、もしかしたらホロを修道女と間違えたのもわざとだったのかもしれない。
「それにしましても、ロレンスさんはいつもいい頃合でよい商品を持ってこられる。今年は神のお恵みにより草の育ちがよく、町の中の道を歩かせただけでも豚《ブタ》が肥《こ》えるほどです。ここしばらく胡椒の需要がうなぎのぼりです。まったく、あと一週間早く来ていただければ安く買い叩《たた》けましたのに」
 主人は朗《ほが》らかに笑い、ロレンスは苦笑いをするしかない。会話の主導権は完全に向こうに握られている。これで強気の交渉は封じられた。挽回《ばんかい》はかなり難しいだろう。
 こんな商人が小さい商会に収まっているのだから商売の世界は恐ろしい。
「えーと、それじゃあ計量しましょうか。秤《はかり》をお持ちですか?」
 天秤《てんびん》の正確さに名誉をかける両替商と違い、商人たちの持っている天秤には細工がしてあって当たり前だ。胡椒や砂金など、ちょっとした目盛りの細工で大きな差が出る商品の計量の際は、売り手の人間も天秤を用意して買い手のそれと併用したりする。
 ただ、ロレンスは胡椒のような高級品を日頃から扱っているわけではないので、天秤など持ってはいなかった。
「いえ、持ってはいませんが、私は神を信じています」
 ロレンスの言葉に主人は笑顔でうなずいて、棚の上に置かれていた二つの天秤のうち、奥のほうのものをわざわざ取り出した。
 顔には出なかったと確信を持てるが、それでも胸中でほっと安《あん》堵《ど》のため息をつく。
 神の教えに忠実であり、正教徒としてこれ以上ないほど正直者であってもやはり商人は商人なのだ。おそらく手前に置かれていた天秤には仕掛けがしてあるのだろう。
 仕掛けのある天秤《てんびん》で計量などされたら、いくら損をするかわかったものではない。胡《こ》椒《しょう》一粒で銀貨一枚といっても差し支《つか》えないのだ。
 ロレンスは、神に感謝の念を捧《ささ》げたのだった。
「神の公平さを信じてはいても、人の目の前にある聖典が本物かどうか調べるくらいの分別は持つべきです。正しき神を信じていても、偽物《にせもの》の聖典の中身を覚えていればそれは神への冒《ぼう》涜《※とく》[#「※」「さんずい」+「賣」は、第3水準1-87-29]と同じですからね」
 主人は近くにあったテーブルの上に秤《はかり》を置いて、そう言った。
 要はロレンスにも天秤に仕掛けがしていないことを確かめさせようというのだろう。
 化《ば》かし合いが日常の商人とはいっても、信頼というものがまったく必要ないわけではない。
「では、ちょっと失礼します」
 ロレンスの言葉にうなずいて、主人は一歩後ろに退《しりぞ》いた。
 テーブルの上に置かれているのは、鈍い金色の真《しん》鍮《ちゅう》でできた綺《き》麗《れい》な天秤だ。大きな町の裕福《ゆうふく》な両替商が持っているような一品は、この店にはちょっと不《ふ》釣《つ》り合《あ》いだった。
 ラトペアロン商会の店構えは普通の家かと思うほど質素で、商会で働くのもこの主人とわずかな男たちだけだ。商会の中も簡素というにふさわしく、壁際に棚が二つ置かれていて、香辛《こうしん》料《りょう》や乾物が詰まっていると思われる壷《つぼ》と、紙と羊《よう》皮《ひ》紙《し》の書類の束が置かれているだけだ。
 ただ、この店にこの天秤は不釣り合いでも、天秤の釣り合いは確かなようだった。
 きちんと真中で静止して、分銅《ぶんどう》を左右両方の量《はか》り皿の上に載《の》せても天秤はきちんと真ん中を示した。
 細工はしていないようだ。
[PR]
# by musicometgirl | 2008-02-24 23:09 | 狼と香辛料Ⅱ